昭和46年07月25日 特別奉修委員



  (途中から)
 させて頂いて、頂くおかげというのは、神様から大事にして頂くということだと思うですね。先程熊谷さんがお届をされますのにお夢の中に、若先生から背中をお風呂で流してもらっておるところを頂いた。若先生勿体のうございます、勿体のうございますとこう言うておるところ。神様から大事にされるということは、もう勿体のうして、勿体のうしてこたえんという生活にならせて頂くことなんです。
 どんなに、金が沢山あっても、物があっても、どんな金銀玉露の様なお家 の中に住んでもね、心の中がいつも燃えておってね、なにかこう、心の中が、いらいらじがじがしたり、腹が立ったり、心配でたまらなかったりするなら、これは、まだまだ、神様から大事にされていない印ですから、大事にされるような信心を、本気でせにゃいけんということですね。本当に、金光様のご信心とはね、神様に大事にされるおかげを頂くという事の為の信心を掛けるのですよ。
 そこに、私は思うですね、本当に、どういう中にあっても、ほんに勿体ない。どうして有り難かこっちゃろうか、どうした勿体ないことじゃろうかと思わせてもらう生活なんです。昨日の昼の、御理解の中に、例えば、学生が一番大事なことは勉強だ。こりゃもう学生にとっては、まぁ生命、勉強するということが。けれども、ほんなら勉強するということ、学問を身に付けるということの、願える根本というのは、やはり幸せにないりたいから学問を身に付けようとするのである、技術を身付けようとするのである。
 してみると、その根本を司ってござる、神様の方をおろそかにしたのでは、おかげは頂かれんことがわかる。学問は出来ても、心が今いう様に大事にされない。そこで神様に大事にされるということはです。やはりこちらが、神様を大事にしなければならない。なるほど、勉強も忙しか、けれどもです、信心をすると、丁度そこに形の上においては、対立したようになる、信心と勉強と。
 昨日、その御理解頂いた時、久富さんが頂いておられるように、やはりお百姓でもそうである。現在の久富さん達の場合なんか、まぁわずかばかりの百姓を夫婦でなさって、それぞれ、まあ子供達、学校にやらんならん、まあ神様の方には、もうつういっぱい、ほんに親戚の人達がこの頃から寄ってから、「ほんなごて、あの勇どんばっかりは、もう金光様に、日にこがしこずつもお供えしよるが、そげなことするなら、貧乏するはずたい」ち言うちから、その言うたち言う話しを聞いたんですけれど、他からね。
 だからもう本当に、たとえば朝から晩なら、まだいいけれども、昼、みんな、一生懸命、田ん中で、出たり、畑へ出たりして、働きよるところに、ちゃんと背広どん着てから、ほんにあの人は金光様へ参いりよってと、馬鹿んごと言うはずだと思うですね。けれどもね、私は、なるほど、百姓は、百姓そのことに打ち込むことが、一番命、生命でもあるけれども、それを、どれだけ作リ出しても、百姓で成功してもです、その根本になるところを、今、久富さん達が頂きござる所ですね。
 だから、ここんところをね、ぐずぐずしたら一生頂かれん、頂きぬかなければ。そしたら、今日あたり頂いておられるのはね、ローソクの光が、ずうっと燃えきって、芯だけが燃えておる、というところを頂いかれた。いうならば、ローソクというのは、自分の身を縮めて、つい明るくするというもの。自分のいわば持っておる勢力、又は身を削り、心を削りとこう申しますね。神様へ一途になっておかげを頂いておる。それは本当に蝋燭の光が燃え盛って行くようなもんです。
 そこんところを、信心にはね、もうしっかり段階がありますからね。その先ですよ神様に大事にしてもらうのは。その先には例えばランプのような光になるだろう、電気のような光になるだろう、スイッチえおいっちょ押したらパッともう、百畳敷きが昼のごと明るくなる様なおかげも頂ける為にはね、どうでもそこを通らん訳にはいかんのです。だから、折角通るならそこをあの苦しい、苦しいで通るじゃなくて、有り難い勿体ないで通らせて頂ける様な信心を頂かなきゃいけんということになるのです。
 私は、本当に信心とは、神様に大事にされるということ。いわば有り難いと思うと思うでも、心が腹が立つなら、こら許されとらんのですから。神様に許されて、神様から大事にしてもらえる、大事にして頂けれる信心を頂くためには、やはり信心とそれが対立するようなことではならん。本当に信心と、例えば学生で言うなら、勉強と信心がね、いうなら、百姓と信心がね、対立ではなくて、両立出来れる信心を頂く所まで、私は信心は進めていかなければならん。
 その過程においては、ほんに馬鹿じゃあるとか、変人じゃあるとかと言われるかも分かりませんね。昨日の御理解がそうでした、一時の御理解がね。だからそこんところの、ほんなら変人ぶりというのは直い事、是が本当だと。人間の幸せの根本はどこまでも、神様に許されなければ、幸せではないと分ったが最後、そこんとこに一途なものを掛けて行こうというのですからね。どうでもひとつ、神様に大事にされるおかげ。佐田さんがさっきから頂いておられるのが、豊かなはしらと。
 豊桂と頂いてますね。月桂冠の桂です。そういうおかげを頂く事なんです。心の中心がそう豊かであれれるという、是は神様から許されなければ出来るこっちゃない、その為にはね、今言、それこそ自分の身を縮めてでもと言った様なね、周囲を明るくするような信心。しかもその信心は楽しゅうしてたまらんというとこまで行かなきゃ駄目。そこを通りぬけなければ、もう絶対、神様に大事にされると言う事は覚束ない。ただ痛いからお願いします。困った事だからお願いしますという信心が一生続いたっちゃラチあかん。
   どうぞ。